第68回「ヒナスミレ」

《ヒナスミレ スミレ科》

春の早い季節に里山を歩くとよく見つかる。里にスミレなどが咲き始めるころ、ヒナスミレのみられる処を教えて下さい。と言われることがある。関東近辺ならどこの里山にもあるので、色々な場所を教えてあげるのだが、結果はあまり芳しくないらしい。里にスミレが咲く頃はもうヒナスミレの盛りは過ぎてしまっているようだ。この花をスミレのプリンセス、という人がいる。なるほど、とおもう。春の来るのを待ってわざわざ山を歩いて行かなければお目に掛かれないのだから、プリンセスかもしれない。けれどぼくにとってはすごく馴染みのある花で群生している処など色々とお目に掛かれる場所を知っている。まだ多少寒いうちから山を歩いている者の特権かも知れない。  ところで、ぼくはこの花をみるとある強烈な思い出がよみがえる。花にはまったく関係のないことなのでここで書いてしまっていいものかどうか迷うのだが、プリンセスと言う名に免じて許してもらおう。

それはヒナスミレの咲く頃、ある山行でお客さんが崖から転げ落ちると言うことがあったからである。比較的急な道を下ってきてもう一息と言うところで崖の上に出「この急坂を下りきるとヒナスミレが咲いています。ヒナスミレは日当たりの良い平らな処が好きなんです」と言った瞬間に一人の女性が足をすべらせて崖下へ落ちていったのだ。下は平坦になっているが樹木の疎らに立っているのでそれに激突したらひとたまりもない。なのでぼくもとっさの判断で飛び降りしばらく滑って抱き留めた。もう一つ下の段の縁だった。止まらなければあと数十メートルは滑落しただろう。かすり傷くらいでは済まなかったかも知れない。ところが本人は何事もなかったような顔をしている。

まあ、無事だったのだ。そのすぐ後ぼくは自身は頭の中を切っていることに気付くのだが平静を装ってヒナスミレの解説を淡々とこなした。なんていう思い出と重なるのだ。

あまりいい思い出ではありませんので積極的に書きたくはなかったのです。ですが、その時のお客さんはぼくにとってのプリンセスにはならなかったことは書いておきましょう。

P-MAC 野外教育センター 石井英行